|
大峰山を御開山された修験道開祖役行者は、日本霊異記上巻第28によると「役優婆塞(えんノうばそく、出家せず在家のままで仏道に励む半俗半僧の修行者)は、生まれながらに知があり、博学なること当代一にして、三宝(仏、法、僧)を信じ、これを持って業とした」と書かれ、
636年(舒明天皇7年)小角3歳は幼少より天性聡敏で、賀茂氏の子は不動明王の化身、継体天皇の子は観音の化身であると、それぞれの本縁が明かになり、なお、この頃玄奘35歳が7年前に中国国境の関所、玉門関(ぎょくもんかん)を出て、3年の月日をかけ、印度のマガダ国ナーランダー寺院に達し、仏教の三蔵(経・律・論)を漁っていました。
640年(舒明天皇11年)小角7歳にして仏耒に志し、9歳で出家して「役優婆塞」と名乗り、叔父の願行に仏教を学んでその蘊奥(うんおう)を極め、孔雀明王(毒蛇を食べる孔雀の神格神)の呪を体得して、その秘法(孔雀明王を本尊とする真言密教の祈祷法の1つで、あらゆる悪病、毒悪、災害、災厄を取り除くとされる)を自在に駆使し、645年(皇極天皇4年)6月12日朝から土砂降りの雨が降っていた板蓋宮で、蘇我入鹿が中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足らによって討ち取られ、中国では玄奘三蔵が17年の長い旅路を終え、群集に迎えられて、長安に帰着し、
646年(大化2年)第36代孝徳天皇(中大兄皇子の叔父)により大化の改新の詔が出された時、役行者13歳は金剛生駒国定公園の葛城山に登り、「櫛羅(くじら)の滝」や「行者の滝」に打たれ、質素な修行を開始し、藤葛の皮で編んだ衣を着て、松の実を食べていたが、その頃、茅原から葛城山へ日参する役行者を、途中村の街道筋にある「野口神社」の祭神彦八井命(ひこやいノみこと)の後胤で、茨田(まんだ)の長者の娘が見初めて恋に落ちたけど、行者は修行一筋で応じ無かったら、遂に娘は女の一念で大蛇に変身し、悪息を吐きながら行者を呑み込もうと、5月5日穴に隠れて待っていると、ちょうどその時、野良仕事へ行く村人が通りかかり、火を吹く大蛇に驚き、持っていた味噌汁をぶっかけて逃げ帰り、後で村人が来て見ると、大蛇が井の中に入ったので、岩で口を塞ぎ閉じ込め、その後毎年5月5日御所市蛇穴(さらぎ)の「野口神社」では、娘の供養に三斗三升三合の味噌でワカメ汁を作って参詣者に掛け、厄除けをする「汁掛祭」が行われ、体長14mの蛇綱が家々の邪気を払って練る「蛇綱(じゃづな)引き」の後、葛城川畔の「野口神社」の「蛇塚」にトグロを巻いて納められます。
|